天徳院は奕堂老漢由緒の寺

天徳院といえば、加賀藩三代藩主前田利常公の正室球姫が静かに眠る歴史的な名刹である。
珠姫は徳川二代将軍秀忠公の次女。若干14歳で輿入れをし、24歳の若さで一期を終えた。

しかし、子宝には恵まれ三男五女がいた。結婚生活10年余で8人も生んだのだから、毎年
臨月を迎えたようであったろう。これでは若いといっても、体はもたなくなってしまう。

お亡くなりになった時の戒名天徳院乾運淳貞大禅定尼から寺の名天徳院と称した。
堂宇を拝観すると無着高泉の書が数多く見られた。高泉は江戸初期の明朝渡来の

禅僧で、黄檗山万福寺第5世である。当時の曹洞宗の有為な禅僧はその威風を
慕って膝下に参じたといわれる。いわゆる明の時代の禅僧の渡来は当時新鮮に受け止め

られたもののようである。黄檗宗は隠元禅師が開山で、歴代住持は書を能くした。

無着高泉も例外ではない。雄渾な筆致には魅せられてしまう。現存する大山門も彼の
指導によっているので、明朝様式が色濃く残っている。

さて、奕堂禅師といえば、愛知県出身の名僧で明治初年には能登の総持寺の独住
第一世として宗門に重きをなした鉄漢である。彼の師匠である風外本高老師はこれまた

宗門きっての禅僧・画僧としてあまりにも有名。その奕堂老漢がまだ総持寺に
出世する前に多くの人材を打出したのがこの天徳院時代であった。永平寺64代の

重興森田悟由禅師を筆頭として、老漢寂後永平寺・総持寺へ昇住した高僧は7名にも

なる。明治10年代から大正まではこの奕堂老漢の下で修行に骨を折った禅僧達

が宗門を支えた。現在の永平寺は79代目であるけれども前貫主宮崎奕保禅師

は奕堂禅師を慕うあまりその一字を借りて奕保と称したほどである。奕堂老漢は惜しくも地方巡業
地の山形で74歳で御遷化になられた。しかし、その余芳は現在までも続いている。

いまの天徳院は坐禅専門道場ではないけれども、今回の拝観でそんなことどもを

思い出させられた次第。