相馬藩に報徳仕法がなされたのはなぜ?

先日報徳二宮神社を尋ねた記事を載せました。その脇神として相馬藩士富田高慶が祭られていることも

述べたのですが、その理由を述べてみようと思います。相馬地方は福島県浜通りの北部太平洋岸に広がる

地域で、江戸時代以前から代々相馬氏の所領であり、一度の転封も経験しなかった土地です。今月下旬に

毎年開かれる相馬野馬追の合戦絵巻は全国的に有名な夏の風物詩ですね。

富田著「報徳記」巻ノ六・七にその間の事情が詳しく著述されているので、概略を述べてみます。

奥州相馬中村領高は六万石ですが元禄・正徳つまり西暦1688年~1715年ごろには新田開発などで3万8千石

もあり、繁栄の極に達していたでした。しかし、それも天明年間(西暦1781~1789)に入るとおもわぬ大凶荒に

苦しむことになりました。浅間山の大爆発は1783年でしたし、冷害(ヤマセ)による凶作は東北地方が特に
大打撃を受け餓死者数が30万人にも達したほどでした。これほどの大量死は明治維新以前では最大規模。

植えた百姓などが打ちこわしや一揆騒動も繰り返し起きるようになったのです。相馬藩では卯辰(1782、83)

から文化年間(1804~1817)にかけて藩の借財は30万にも膨れ上がってしまい手の施しようがないほどの経済
敵危機にみまわれました。時の藩主相馬益胤(ますたね)はこうした経済的苦境を乗り越えるべく文化年間に

徹底した倹約令をだし、局面の打開策を講じたのです。実際その采配は郡代の草野正辰と池田胤直(たねなお)

が中心となり、君臣一致して改革の実が上がり始めたのですが、天保4年にまたまた大飢饉の憂き目にあって

しまいます。