天保の大飢饉

相馬中村藩は元禄年間にその経済力が頂点にたっし、村民の生活も贅沢に慣れきっており、

次第に勤農の農民も堕落していた。年貢米もあいかわらず当時を基準に算定していたため
農家の負担は年々その家計を圧迫し、そこに天明の飢饉さらに追い打ちをかけてるかのように

天保の大飢饉に苦しめられた。明治維新から30年ほど前のことだが冷害が原因とされて、東北地方は
最大の被害地となり死者10万人ともいわれる。しかも凶作が単年度でなく数年も続いたのが

特徴とされる。江戸時代における凶作は大自然の大きな気候変動にたいして有効な手立てが

ないまま、百姓はじめ武士階級の生活をも悲惨なものにしたのである。苦しんだ民衆は食糧
確保をしようと一揆や打ちこわしを起したり、山野へ分け入って食べれるものを採取しても、とても

ひもじい腹を満たすことはできず、村を捨てて流民化し他領や江戸などに流れこんでいった。
大塩平八郎が<救民>を旗印にして100人ほどの民衆と門弟20人とで大坂市内で一斉蜂起

したのは天保8年2月。この蜂起によって放たれた放火により元町市中の5分の一が焼かれてしまい、消火

までに二日もかかった。大塩は元町奉行所の与力であり支配階級なのでその反乱は幕府・諸藩

に大きな衝撃を与えた事件となった。この騒乱が原因で幕政改革の必要性が高まり、天保改革

につながっていったものである。