原坦山老師の医学修行

原坦山老師の医学修行

いわき出身の名僧として名高い禅僧ですが、この老師の出家前の事歴をみるとnなかなか興味が
つきないです。十代の半ばで父親である武士の新井勇輔につれられて江戸にでたのですが
22歳で出家するまでに医学をも勉強していたのでした。

当時の官学の最高峰は湯島の聖堂でした。そこに若き坦山も入学し儒者となるべき漢学の
素養を摘んでいたのでした。しかしというか同時に当時の最先端としてもてはやされた蘭学
つまりオランダの医学にも興味を示し湊長安先生という医学者の門を叩いてもいます。

当時は儒学者になるべく猛勉強をしていたのでしたが、あわせて儒学とはおおよそ対極にある
オランダ医学の勉強にも精を出していたんです。師事した湊長安はその方面での代表的な
先生だったのです。あの有名な鳴滝塾を開いて名声を博していたシ-ボルトの高弟として

シ-ボルトからドクトルという免許状までいただいていたほどです。シ-ボルトは長崎の出島
に医者として来日したのですが、まだ29歳の若き医師の医学の技量は瞬く間に近辺に
広がり、全国から有望な医学志望のエリ-ト達が出島に押し寄せたのでした。

湊長安はすでにオランダ語に習熟しておりシ-ボルトより7・8才高齢でしたが後に
ドクトルの称号を得て江戸に戻り開業していたのでした。かたわら丹波篠山の殿様の
主治医をも兼ねていたのですから当時いかに有名な先生だったか想像ができようという
ものです。

儒者をめざしながら当時の先端医療である臨床医学をマスタ-した先生の指導を
承けたのですから、出家して禅僧となる以前の教養はまことに独特のものとならざるを
得ませんでした。

こんな出家以前の前歴を知るにつけ、あの坦山老師の独創とされる「心性実験」の説が説得
をもっている所以なのだと思います。