誠明院さまの息女

誠明院さまの息女

誠明院功誉報徳中正居士。これは二宮尊徳の戒名です。江戸時代後期一大農政家として70年の尊い生涯を閉じた我が国
の偉人ですが、その戒名までで知る人は少ないでしょう。その息女の文子さんのことになれば、報徳関係に詳しい人材で
ないと興味もわかないかもしれませんね。

尊徳先生は一介の貧農から出発して56歳には幕臣の御普請役に取り立てられた人物です。厳しい封建制度のただ中で
異例の出世をされたのは、先生の提唱された農村復興事業のすばらしさが幕府にまで深く浸透していたからに他なりません。

お百姓がお侍に取り立てられたこと自体は素晴らしいことですが、そうした名誉であっても下っ端役人にすぎない立場でした。

先生は31才のときに きの女(19才)と結婚しましたが、服部家仕法の際に、同意が得られず嫁のほうからの申し出で

破局しました。きの女との間には長男徳太郎が生まれたのでしたが一月余であえなく死亡してしまいます。そんなこと

も離婚の原因になったのでしょうか。その後、服部家の下女をしていた波女(16才)と再婚し一男一女を授かります。
長男尊行(弥太郎)と長女文子です。長女が出生したのは先生38歳の時でした。

成人した文子は父親の仕法に尽くした女性で、書や絵画にすぐれた人物です。先生ご自身は出身地の栢山の親戚に
嫁がせようとの思いもあったようですが、婚期を逸した文子が嫁いだ相手は高弟の儒者富田高慶でした。

富田は熱心に報徳仕法を体得、実質的な先生の後継者とされる相馬中村藩の御武家さん。ご両人の結婚式には
先生が立て込んだ仕法の都合上、やむなく欠席しその代理には弥太郎の岳父が世話をしたのでした。因みに

長男弥太郎長女文子の結婚は同じ年の嘉永五年四月と八月で、文子は相馬中村で挙式しました。文子が結婚するために
わが郷土いわきを通過した記録があります。結婚式の世話役をした衣笠兵太夫が臨席できなかった尊徳に

宛てた書簡です。

 先月青木村勘右エ門宅にてお文様御一所に相成り、・・・四日目湯本駅本陣久太郎佐右ヱ門方泊りの節、
 暁より大風雨故早朝出立相成り申さず見合わせ居り候処、雨晴れ候につき五つ時頃出立、磐城平御城下迄った
 四つ時過ぎ着仕り候処、御城下外れ鎌田川洪水にて渡舟相成り申さず、空しく一日逗留仕、翌日川明の

 様子篤と見届けさせ候上、出立仕りその後何の差支えこれ無く、先月二十六日中村御城下へ上下無難に
 到着仕り候。

新妻となったのでしたが、それもつかのま翌年六月に死児を分娩し、産後の日だちが悪く、三十歳の若さであえなく
他界してしまいました。

 当時弥太郎から父尊徳への書簡にはこう述べられております。

「今明方東郷着致し候処、母上様始め一同当惑相嘆き、誠に以て看病残る所なく十分行届き候へども、
 おふみ事養生相叶ひ申さず、作七日夕七つ半頃病死、誠に以て驚入り、一同嘆息仕り候」

最愛の有能な秘書でもあった愛する長女を失った先生の深い悲しみが胸を打ちますね。以前
相馬にある文子様の墓参りを家内と共にしたのですが、改めて当寺を思い起こしました。