大学からの取材がありました。

今月16日午後二時から四時までのおおよそ二時間十文字学園女子大学からの
取材がありました。前半は三年生の女子学生との対話形式でした。彼女はいわき市出身の学生でした。
同大学は二年後に創立100年の節目を迎えるそうです。学園報(「立ちてかひある」)ではそれに先立ち創立当初から自彊術を取り入れ、朝礼時にその体操を実修する伝統になっています。創業者十文字ことは悲願の女学校設立の
とき、夫十文字大元からの資金援助を得るの第一条件としてこれを受け入れたという経緯があったのでした。
 そもそも十文字大元氏は難病をわずらい八方手を尽くして治療の方途を探していた折、中井房五郎に出会います。彼は天才的な施術者としてすでに有名でその天才的透視術を駆使しつつ、西洋医学では完治不能とされていた難病の患者を大勢救っていたのです。大文字氏も彼の施術により完治。施術を望む患者が門前市をなすありさまをみて、中井に相談。より大勢の患者を救う手立てを乞うたところ、治療中の患者の相手をしながら大文字に口伝をしたのです。その間わずか二時間ほどだったといいます。それが今に続いている自彊術体操の発端となったのです。
 当初この中井独特の施術は六方伸展術と称されていたのですが、自彊術と命名したのは十文字本人でした。彼は中井から伝授を承けた自彊術を全国に弘めるため、自身が創業した金門製作所経営と合わせて会社の敷地に自彊術道場を設立し、依頼に応じて講演や実技指導に後半生を捧げたのです。あの後藤新平も中井によって救われた人物で、中井に紹介したのも十文字でした。拓殖大学総長にもなった後藤はその後熱心な信奉者として関係する政財界に自彊術を精力的に働きかけました。自彊術関連の書物には必ずといってよいほど後藤の書が掲載されています。その影響は多大であったとおもいます。自身ドイツ留学してまで医学を研鑽した後藤は「俺は医者ではあるが社会の病気を治す医者になる。」と自負しております。あの幕末の志士橋本佐内と同じ心境の持ち主だったんですね。

明治時代我が国は日清戦争で清国を破り台湾を統治することになりました。児玉源太郎陸軍大将が台湾総督となって赴任したとき、後藤を抜擢し民政長官として当時蔓延していたアヘンの撲滅を初めとして社会のインフラ整備を着々と実現したのは後藤ならではの力量があったからでもありました。台湾統治を成功させた彼の偉大な功績は現在の台湾近代化の基となり、現在でも台湾人の尊敬の的になっております。

そんなことから政財界のみならず一般にも自彊術が大きく浸透して全国的に国民体操としての不動の地位を獲得したのでした。

戦後はラジオ体操一色となり有力な後継者もあらわれないまま自彊術は下火になり長く低迷していたのです。ところが昭和40年代になり開業医近藤芳郎先生のもとに患者として診察に来た老人がおりました。
その人の名前は久家恒衛といい戦前にあった巣鴨の自彊術道場で指導をしていた方でした。奥様の幸世さんはそのころ茶道を習いに久家翁の次女広瀬美和さんのお宅に通っており、自彊術を経験していたのです。

近藤先生自身は糖尿病で苦しんでいたのですが、病弱な奥様が自彊術を毎日実行しているうちにそれまでの病気を克服している姿をみて本気になって自彊術をしたところ、驚くべき効果を実感したのです。現在の公益社団法人自彊術普及会はその近藤ご夫妻により設立されたのでした。
ところで、十文字大元の長男利夫の奥様は良子といいます。福島にある

飯坂温泉には豪農堀切邸跡が一般温泉客に開放されていますけれどそこの長女なんです。近藤芳郎の妻幸世もじつは福島の隣町川俣の出身です。
十文字学園の二代目理事長の奥様と自彊術普及会の二代目会長のお二人がともに福島県人であったというのも不思議なご縁というものでしょう。きっと神仏の計らいがあったのだと思われるのです。さらに、こうして十文字学園創立100年を二年後に迎えるとき学園報『立ちてかひある』の取材がいわきの拙寺であったというのも偶然以上のなにかが働いたと感じました。

後半には和室に移動して香道の点前を披露しました。組香は三炷香でした。珍しい香木の香をひととき楽しんでいただきました。