自彊術をしよう、健康保持のために

 

 

  自彊術と禅             茨城支部 村上徳栄

                    (71歳・自彊術歴3年)

 

   小生が自彊術に出会ってから三年ほど経過。初伝を得て中伝取得をめざす日々。毎朝の日課である坐禅・朝課に自彊術が加わりましたので、四時頃には起床です。

 長らくいわき市NHK文化センタ―にて坐禅講師を続けており、受講者で自彊術中伝の女性からの雑誌紹介記事で初めて自彊術を知るようになりました。

 

 四年前の事。不運にも心臓発作が急襲、心臓にペ―スメ―カ―を入れる障碍者になってしまいました。それまで健康には相当な自信がありましたが、この機会に自身の健康状態を見直す必要に迫られておりました。その矢先でしたので、早速教室に入会手続きをしました。

 体操に慣れるにつれ、いろいろ過去の『自彊の友』を読もうと考え、教室の指導者澤節子奥伝にお願いし、小生が入会する以前の『自彊の友』を読み進めています。

 

 中でも『自彊術の医学』には破格の禅僧弟子丸泰仙老師と近藤会長との出会いの記事にとても惹かれました。老師は曹洞宗ヨ―ロッパ布教初代総監でした。老師が単身シベリア鉄道経由で渡仏した目的はすでに桜沢恕一が首唱したマクロビオティック(玄米を主食とした食養法)の実行サ―クルの継承者として、さらには坐禅の師沢木興道老師の遺言を彼の地で

実現させようとする坐禅伝道への強い意志もあったのです。それには九州壱岐の島出身で電力の鬼と称された松永安左エ門(松永耳庵)の経済的援助もありました。耳庵は沢木興道老師に私淑していた関係で弟子丸老師とも顔見知りだったのです。

 

 それまで禅の思想は北米で活躍された鈴木大拙博士の英文著書群が主であって、実際に坐禅を経験しようとする欧米人は少なかったのです。老師が渡仏した昭和三十五年からもう半世紀も過ぎた現在、欧州全土には三十ケ寺余の正式に認定された曹洞宗寺院があります。それぞれの國の僧籍を持つ禅僧が住職として曹洞禅を広めているのが現状です。

 

 そうした歴史的経緯があって『食生活の革命児』(桜沢如一の思想と生涯・松本一郎著)が欧州の大地に根を下ろし、それを継承された弟子丸老師が坐禅の素晴らしさを広く全土に弘めたのです。フランスは伝統的に誇り高きカトリックの國ですが、異教徒であるにもかかわらず老師はその大聖堂に招待されて坐禅をし般若心経を唱え、東洋思想にも西洋に劣らぬ深遠な仏教思想があることを証明しました。このことはキリスト教会にとり古今未曽有の宗教的大事件と熱く報道機関を刺激した出来事でした。このようなわけで、

 

 

 すでに欧州において獅子奮迅の大活躍をされていた老師に注目したのがヘルスア―トの吹鼓者池見酉次郎医学博士でした。その伝手で九州は奥博多ラドン温泉での近藤会長・池見博士との三者面談が実現の運びとなったようです。

 

 

ところで、『自彊の友』で知ったのですが、創始者である中井房五郎氏から伝授された整体術を自彊術と命名した十文字大元氏の墓は鶴見の曹洞宗大本山總持寺にあるんですね。近くには往年の銀幕の大俳優石原裕次郎の墓があるとか。機会を見つけて十文字大元氏のお墓参りをと念願しております。

 

 自彊術を復興させて絶学を継いだ近藤芳郎・幸世ご夫妻の恩師である久家恒衛翁九十歳の著書『禅と自彊術健康法』には当時大阪堺南宗寺住持の目黒絶海老師との印象的な出会いが記述されています。目黒絶海老師は後に臨済宗法灯派の本山興国寺貫主になられた禅者です。

 ところで、実は小生の雲水時代に生前の弟子丸老師と会う機会が一度だけでしたがありました。ときに、昭和五十三年十月のことで、未だによく覚えております。駒大を卒業してすぐに大本山永平寺僧堂に入衆し、あしかけ四年の小僧修行をすませ、臨済宗法燈禅林師家

獨峰軒柳瀬友禅老師に参禅していたころのことです。

 

 柳瀬老師も弟子丸老師もともに禅堂経験がないに等しい居士から出家された老師でした。それぞれ似た環境で坐禅に骨折った老師方でしたので共鳴する点があったことでしょう。柳瀬老師の師匠は加藤耕山老師ですし、沢木老師との道交は同門当時からの強い絆を持った禅者としてお互いにその高い禅境を許している間柄でした。『禅談』で当時の禅界を煙に巻いた沢木老師、それに東京奥多摩の德雲院の老師として黙々と坐禅三昧の日送りをする耕山老師の道風は評者をして「昭和の寒山拾得」とまで言わしめたほどでした。

 

 正月になると全国の寺院で坐禅指導に余念のない宿なし興道こと沢木老師は必ず德雲院の老師に挨拶に行かれるのを恒例としておりました。その時のそれぞれの侍者は柳瀬老師と酒井得元老師でした。そんな間柄なので弟子丸老師も自然に柳瀬老師のことなども沢木老師から伺っていたのだろうと考えられます。

 

 欧州での超多忙な合間に時折帰国された弟子丸老師が気を許した禅者とつかの間の歓談をするのは自然のことであったろうと推測されるのです。会合したのは銀座の三笠会館。お二方にもう一人の客人がおりそのかたは黄檗宗師家村瀬玄妙老師でした。

小生は一般在家から出家したものでしたので寺院関係とは無縁の和尚であり、海外布教師になろうかと漠然とした考えを抱いていたのです。なので、弟子丸老師の侍者として同行していたフランス人尼僧と三十分ほど英語でフランスの禅堂生活の様子を伺うことができたわけです。

 

久家翁九十歳の著『禅と自彊術健康法』を読んで驚いたことがあります。その著書には

 坐禅姿の二枚の写真が挿入されており、そのモデルになった禅僧は大学時代の恩師酒井得元老師でした。酒井老師は沢木老師の指導する東京寺院の坐禅会を引き継いだ高弟で駒大で学生に坐禅指導されておりました。都内の坐禅会には竹友寮の寮主もされていた酒井先生に同行して参禅会に御一緒したこともあり、懐かしい思い出となっております。

 

 昭和四十年代のころはまだまだ大学紛争最中で授業が休講になりがちでした。自彊術をやりだしてから、十文字女子学園からの取材を受けたり学生時代の恩師酒井先生やら、弟子丸老師との出会いなどが走馬灯のように脳裏に浮かんできます。

 

 最後にもし弟子丸老師が長命を得たならば近藤芳朗会長・池見酉次郎博士の御三方で東洋思想の神髄としての禅のみならずヘルスア―トや自彊術でもってパリっ子の肝っ玉をわし掴みしたに違いないことを断言したいと思います。

『自彊の友』NO.470 (2015年4月号)からの抄録です。

 世の中の風潮として、多くのものが簡略化され楽に楽にと流れるように
 なりましたが、自分の健康は日々の努力がなければ維持できないことを
 自彊術は教えてくれています。

  気力の中身は、自分的には”やる気・する気・根気”と思っています。この
  ”やる気・する気・根気”がへたることなく持続するのでございます。
  (68)才・自彊術歴14年・男性