「正法眼蔵随聞記」の世界

鎌倉時代に書かれた古典的名著「正法眼蔵随聞記」(しょうぼうげんぞうずいもんき)は
禅僧たるものには必須の書物です。内容と云い、文章と云い素晴らしい書物です。

いまから700年前に和文でかかれており、注釈書もたくさんあります。坐禅会のテキスト
としても最適です。そのなかから抄録したものを紹介しておきます。

 〇仏子と云うは佛教に順じて直に佛位に到る為なれば、只教に随て工夫辨道すべきなり。

其教へに順ずる實の行と云は即今の叢林の宗とする只管打坐なり。

 

〇 禅僧の能くなる第一の用心は、只管打坐すべきなり。利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば
自然によくなるなり。

〇 佛道に入り佛法の為に諸事を行じて代に所得あらんと思ふべからず。

 

〇 誰人か初めより道心ある。只かくの如く発心し難きを発し、行じ難きを行ずれば、
自然(じねん)に精進するなり。人々皆な佛性あり。徒(いた)づらに卑下すること
莫れ。

〇 ・・・無常迅速生死事大と云うなり。返返(かえすがえす)も此の道理を心にわすれず
して、只今日今時ばかりと思ふて時光をうしなはず、学道に心をいるべきなり。

 

〇 後のこと明日の活計を思ふて棄つべき世を捨てず、行(ぎょう)ずべき道(どう)を
行ぜずして、徒(いたづ)らに日夜を過すは、口惜しきことなり。只思ひきりて、
明日の活計なくば飢へ死にも寒(こ)ごえ死にもせよ、今日一日道を聞て佛意に
随て死せんと思ふ心を、まづ発(おこ)すべきなり。

 朗読するたびに、荒みがちな心が澄んでいくのが実感されます。永平寺開山さまの肉声に
直に接する。そんな好文章が随所にちりばめられています。