人材こそが寶!

相馬中村藩救済にあたって尊徳による報徳仕法が成功しつつある途上で、明治維新を迎えて新政府時代と

なったために仕法の完成まではいかなかったものの、着々と成果は上がっていたのは事実であった。

その推進役として活躍したのは草野正辰(70代)と池田胤直(50代)だった。富田によれば草野は「度量
人に超え、うち仁心ありて外方正也」というできた老人であったし、池田は「才学衆人に超過し、加之明断
遠慮あり」と思索深い人であった。これら藩内屈指の人材が30年来緊縮財政を維持してきたものの

天保の大飢饉には施すすべさえなかった。「下民食を得るところなく飢渇に迫り高山に登り木実を拾い

草根を掘りて食となす」という悲惨な状況下にあったのである。元禄時代藩財政の頂点からみるとすでに

人員は五万人も減少し、収納高は十万苞余しかなかった。そんななか、藩の窮状を訴える使者として尊徳に

面会したのは郡代一條某だったが、当の尊徳にはすげなく謝絶されて大任を果たすことはできずじまい。

しかし相馬藩ではあきらめずついに草野正辰が面会に成功し、尊徳もこの老人の人となりを評価し

相馬中村藩でも報徳仕法を実行に移すことなった。それにはすでに以前から尊徳の側で使える

儒者の富田高慶の存在があったればこそであろう。尊徳自身は生涯相馬の地を踏むことはなかった

けれど、実際の指揮をとった富田等の綿密で着実な仕法が功を奏した要因といえよう。こうした有能な
人材とその藩を救済しようとする熱意がなければ、相馬での仕法は成功しなかったと思える。