聖行としての作務 (さむ)

佛教がインドから中国に輸入されて、次第に中国独自の仏教が現われてくるようになったその代表格

は天台宗・華厳集・浄土宗それに禅宗であろう。なかでも禅宗では労働奉仕が聖業とされるまでに
なった。それまでインド仏教においては殺生を禁ずるということから労働としての耕作は忌避されて

きた。中国に輸入された仏教はそれとは対照的に労働は作務 (さむ)とされ、究極の悟りにいたる

重要な実践徳目となった。中国禅宗の語録をみれば、作務 の合間の禅問答から多くの

悟りのきっかけを得た禅匠の逸話があふれている。体を動かしての作業により畑の耕作や
身の回りを清める神聖な行為として作務 (さむ)は今日の禅宗寺院においても、その伝統は

継承されている。京都などの禅宗寺院が観光の名所になっていることを見れば、そのことが

おのずと納得できる。寺の境内をを契術的センスあふれるたたづまいにしたのも、ひとえに

掃除がいかに宗教的な聖業であるかの証左であろう。とはいうものの、一般寺院において
街中の寺院はさておき、郊外の山間寺院などの作務 はなかなかどうして厳しいものである。

暑い日照りのさなかに墓地に遠慮なく生えている雑草の草取りや境内の法面の草刈り作業
などは住職一人の作業労力ではとうてい賄えないものだ。せめてお盆位はとおもって

作務 に精を出すものの60代にもなればキツイ労働となる。草がはえるのはいわゆる”天の道”
であり、人間がその雑草を刈り取るのは”人の道”である。草は天然自然にところかまわず

種のある個所から一斉に目を出してくるが、その草を除く作業をするには限りがある。

お盆が控える今日この頃になると、作務 で疲れた体をほぐしながら労働は神聖なる宗教的浄行

と考えた禅匠たちの偉さを思う。

(8月6日コンテンツ記事の転載)