本多忠籌公と石門心学

江戸時代中期の寛政の改革で活躍した老中磐城泉藩主本田忠籌公のことについては当いわき地区でも
ご存知の方はすくないのではないでしょうか。

泉藩は石高15000石に過ぎない弱小藩でした。そうしたなかから幕閣にとりたてられて老中にまで
昇進した大名もめずらしいですね。

寛政の改革は享保の改革それに天保の改革とともに江戸時代の三大改革と言われております。
特にその当時民衆に熱烈に支持されていた石門心学に深く傾倒し、その教えを広めたことで
知られています。殿一人にとどまらずその家族や領民にまで浸透させたことで、東北でも有力な
心学の聖地としたことは私たちいわき市民の誇りといえますね。

梅岩の創唱した心学は主として京阪地区中心に広まっていたのでしたが、中沢道二によって
江戸城下の大名のみならず一般庶民にまで広く受け入れられたにには、本多公のような
強力な外護者があったからでしょう。

石門については、これからも述べたいことがあるのですが、今回はそのさわりだけに留めたいと
思います。