『慈雲尊者法語集』から

『慈雲尊者法語集』から

 

〇眞正に佛を禮するものは、佛の他に自心なく、自心の外に佛なく

 佛すなはち自心なり。自心即佛なり。

 一切衆生もまたしかなり。山河大地もまたしかなり。此中生もなく

 滅もなく、本来成仏して更に別法なし。

 

〇見聞覚知いづれのところか解脱界ならざる。色声香味なに物か実相ならざる。

 我愛増上する所虚空も妄想となる。執着兆すところ風雲も昧境となる。みず

 や心清浄故有情浄。

 

〇天地を以てわが心とせば、到るところ安楽なり。日月を以て我光明とせば

 二六時中くらきことなし。何をか天地を我心とすと云ふ、事にふれて私なく

 二六時中障りなければ、元来そのところ清浄身なり。

 

〇菩提心とは今新たに発起する事にあらず。本来の自心なり。此心一切衆生に
同じければ、いきとし生るものを見ること一子の如し。此心本来清浄なれば

 一切の煩悩無明その跡をとどめず。此心本来微妙なれば一切法門我家の宝蔵なり。

 此心すなはち諸佛の無上菩提なれば、自身に凡夫地をはなるべし。法の邪正を

 察して心にその私なければ、一切時一切処に萬善をのずからそなはる也。

 

〇心動ずれば山河大地も動ず。

 心動きなければ風雲鳥獣もその動揺なし。

 無心のところ、寿あり福あり。

 散乱のところ病生じ憂生ず。天地と共に安住して千秋萬春。

 

〇人は人となるべし。此の人となり得て、神ともなり佛ともなる。

 

〇雪  窓外友として書を読むべし。

 月  天上千萬年つねにわが心地をてらす。

 花  世中の憂喜此地にわする。

慈雲尊者の法語は清新流麗であり、讀む者をして「心地開明してをのづからその

疲れを忘れ」しめるが、それは尊者の境涯の天真独郎・虚霊不昧なるに由るものである。

また、我々は尊者の法語から、佛教の深い意味を知ると共に、広く東洋的の人生観・

自然観に就いて教へられるところが大きいのである。(木南卓一先生のことば)