時宜にかなった新刊書

安藤信正展がいわき市美術館で好評開催中です。先月20日の夕刻に
関係者が集まり、オ-ピニングレセプションが開かれました。そのさい、
安藤家16代の現当主である安藤綾信宗家の紹介で披露された書物が

「プロイセン 東アジア遠征と幕末外交」でした。著者は福岡万里子女史。

本文380ペ-ジもの博士請求論文です。幕末でも尊攘の機運がもっとも
激しく高揚して、桜田門での井伊大老の横死や外国人切傷事件が

相次ぎ、国内治安が騒然としていた一時期、外国奉行として活躍した
いわき平藩主安藤信正公の詳しい動向がこの書物でよくわかります。

プロイセン王国政府を代表してオイレンベルク公爵と安藤公の会談の
場所は常に安藤家の江戸下屋敷であったことも、この本で知ることが

できました。また、そのときの安藤公の執務態度なども知ることができ、
いままで以上に信正公が具体的・親密的になりました。

そのなかで、信正公が会談する様子の描写がありましたので抜粋して
みます。

 「以前は外交上の問題になると、私ども外交に関する役目を仰せ
 付かっていた者は、問題毎にそれぞれ意見書を老中の手許に差出
 し、その意見書には、これはこういう風の御挨拶なされたがよかろう、

 あれはああいう風に御談判んされるが然るべしと一々こまかく書いた
 ものであるが、対馬守が老中になられてからは、以後左様にこまかく
 したためるに及ばぬ。大要だけで宜しいということになった。それで

 対馬守はその意見書を卓子の上に置いて外使と応接していたが、
 以前は応接に時間がかかり、灯のつく頃までも退けないことが多かった
 が、対馬守になってから要所々々々を捉えてはどんどん談判を進める

 ので、いつも手早くはかどった。ただ、この人の時になってからは、
 応接の時の談判問答を筆記する、その筆記がなかなかやかましくて、 
 ぜひ今晩のうちに書けという。その筆記は少なくとも美濃紙で二三十枚

 あるので、よほど手数を要し、大抵八ツ時(午前二時前後)頃まで
 かかったものであるが、それが終ると封印をして老中対馬守の手許に 
 差出す。老中は直ちにそれを自身検閲し、もし筆記に誤りがあれば

 厳重訂正させる。それが終えるまでは一同退出することができぬ。もちろん
 老中も寝ない。そのため退出時の深更になること多く、愛宕町の御役宅で
 日の出を見たことも珍しくなかった。とにかく安藤対馬守という人は、時務

 についてはなかなか精励した人である。」(田辺太一『幕末外交瑣談合」)

当時幕府に開港を迫るべく来日していた米国弁理公使ハリス、英国公使オ-ルコック
そしてオイレンブルクなどの錚々たる外国高官が安藤対馬守に寄せた信頼のほどが
よくしれる逸話です。

幕末磐城平藩主安藤信正公はもっと広く市民に知られてしかるべき立派な政治家で
すね。

この書物の著者は英語ドイツ語フランス語オランダ語古文書などを駆使して
膨大な著書をこの世に送り出しました。出版してから第2回東京大学南原繁記念
出版賞受賞作となったのも、当然といえば当然の快挙でしよう。