有名な禅の古典「碧眼集」は百則ありますが、その劈頭の古則がこれです。
中国(シナ)の梁国の主である武帝がはるばるインドから禅を伝えに来た
菩提達磨大師と面会して質問した言葉です。
「あなたが伝えたいと考える禅なるものの根本義とはどういうものでしょうか」
それに達磨が答えるには
「廓然無聖(かくねんむしょう)」と。
「それを譬えてみるならば、天空に雲一つない澄み切った青空のようなもの。
仏教学の知識をひけらかしたり、僧侶を育成したりすればご自身が聖人の位
に昇れるなんてことを考えるのとはわけが違うんです。」
もはや、功徳を積んだとか悟ったとか。そんなところに座り込んでいかにも
仏教通を自慢しているようでは、禅の奥義を体得することはできないですね。
そんな意味をこめての答えです。
それでも、仏道を求める求道者であれば、だれでもこの質問を抱きますし、
その解決を求めて修行しつづけるものです。大事な質問であり答えの出し
にくい質問です。頭で処理するものではなく、体と心を一体にして体得しなけれ
ばならない問題ですね。