永訣の言葉

発表されなかった長男(副住職)のおじいさんへの言葉です。

この度の葬儀に際しまして、祖父との思い出を少し述べたいと思います。
お疲れさまでした。数え90年という永きに渡り、カネハチ鈴木家の長老として、家族はもちろんの事、息子、娘夫婦、孫、ひ孫に至る迄、その命が尽きる、その日まで、威厳を通し、義理を重んじ、その厳しいながら、情に厚い人柄は、皆様に愛されていたと実感します。
先日、危篤の報を受け、私達、家族が駆け付けた際、私は、送る言葉は何も見付からなかったですし、送りたいとも思いませんでした。お別れをしたいとも思わないから、ただ今、生きているうちに
意識があるうちに会う事が出来ただけで有難いと思えたからまたすぐ戻ってるよと伝えるだけで精一杯でした。頑張れとか生きてとか、死なないでとか、本当は伝えたい事は、沢山あるのだけれど、何も伝える事は出来ませんでした。
また、先に来ていた妹が祖父に関するこんな記事を見つけました。約20年前の話、いわき市に祭国強という当時は無名の現代芸術家が『環太平洋より』という、個展を開いたことがありました。当時、祖父は71歳船大工を引退し、畑仕事を毎日する日々だったと思いますが、木造の廃船を解体し、その骨組を作品にしたいと廃船の解体を依頼した時の話ですが、作業後、祖父は、『木造船にかかわったのは25年ぶりだったけんとも、体はちゃんと覚えてるんだねぇ。もう70の坂も越えたし、これが最後の思いでだっぺな。忘れていた船のごど思い出させてもらって感謝してるよ』と最後に言っていたと記載されていました。
その後、小名浜マリンタワーの麓にその解体した船は、オブジェ作品として、数年前迄、展示されていて、私にとっては、密かに自慢の一つでした。
祖父の多分、仕事面での思い出はこの、廃船解体作業が、最後だったと思いますが、私達の思い出は次々にその時々の感情と共に次々と思い出されます
私が小さな時は、共働きだった両親の代わりに、学校行事やドライブなど私達の面倒をみてくれ、色々な場所に連れて行ってくれました。
旅行が好きで、温泉が好きで、行った先々で、地図のハンカチをお土産として買う事と景勝地の提灯をよく買ってきていたと記憶しています。
沼の内の皆様には、『愛蔵オンジ』の名で知られ、私がオツカイに行った先で、『何処の孫だい?』と聞かれ、『愛蔵オンジのトコだよ』と言えば、大概の人が知っていました。
家庭にあっては、何時でも怒っている頑固者のイメージで、小さな時は、優しいけど怖いお爺さんでしたが、片腕がない祖母を助け、買い物にも付いて行ったり、魚を裁く時などは、台所にも立ったりと、優しい一面も有りました。
晩年は、自分の部屋でイヤフォンをTVに繋ぎ、大好きなTVを見る1日で、私が来た時は、おー、じーちゃんと声をかけ、祖父は、来たのかと、かすれた声で話すだけでしたが、そこに居るはずの祖父はもういません。祖父は、数え90歳を一期として、亡くなりました。
最後に入院する迄、酒とタバコを愛し、自分の葬式の手配まで指示をしていた祖父との思い出も今日で最後となります。本当に90年間お疲れ様でした。