「南天棒禅話」から

洞山の寶鏡三昧に、潜行密用。如愚如魯。但能相続。名主中主。とある。相続が六ケしい。

時として境に奪はるヽ。悟寐合一といかぬ。魔に窺はるるものよ。逆境に逢ふと、平生の
意気も志操も何處へやらいってしまう。馬鹿の修行が十分でない證據じゃ。潜行は不露
なりとある。きはだたぬ。何をしてをるのやらわからぬ。くさみがないのぢゃ。凡とも聖とも

分らぬから天人雨をふらすに由なしぢゃ。密用は不覚なり。悟りをわすれてしまうた。佛祖
が何をいったやら、浮世のさかもしらずにけりぢゃ。作用(しごと)につきあたるものヽないのが
密ぢゃ。開巳無外ぢゃ。おっぱらうた所ぢゃ。しかしおっぱらうといふものもない所が密ぢゃ。

そこが馬鹿のように見えるが、つきあたるものがないから、案外馬鹿どの自在力がある。馬鹿さ

加減は自修するより外はない。昨夜泥牛入海去。直至如今不見跡。泥牛になれ泥牛になれ。

   (大正4年初版・7年にはすでに六版を重ねている。)

高弟で知られている飯田政熊(?隠)の後跋が漢文で記されている。乃木将軍や児玉源太郎

大将も参禅して、この老師の指導を受けたことは有名な話。老師77歳当時の言葉です。門外漢

にはなんのことやらチンプンカンプンかも。禅話のおもしろさが伝わってきますね。