道体類からの抜粋です。
人の性は本来善である。それなのに悪い根性があらたまらない者があるのは何であるか。
なるほど性を語れば皆善である。善でない者はない。然るに各人の稟(う)け得たる才能
力量には純雑大小種々あって、下愚で如何ほど骨折っても善くならんものがある。その中間の
者は修行により善くする事が出来る。・・・
所謂下愚の中に二つある。自暴と自棄である。善を以て自分の生活を斉えて行きさえすれば
善に移らずということは決してない。何れも善に至るのである。ただ自暴自棄の者は致し方ない。
自暴というのは如何なる教えを聞いてもこれを拒んで受け入れないもの、自棄と云うのは自分
には到底出来ないものとして為そうとせない。かようなものは聖人と与に居っても感化せられて
善に入ることは出来ないのである。これが仲尼のいわゆる下愚とういのである。
西晋一郎先生の講義録からの抜粋です。宋学では人の本性は善である、といっています。
禅でも人はだれでも仏性をもっている、といいます。そして、中間のもの、つまり凡人のわれわれ
お互いは「修行により善くする事が出来る。」とも。これも禅修行を決心して坐禅を始めると「なる
ほどそうなんだ」と体で納得がいきます。儒教でも禅学でも同一趣旨のことを述べているんですね。
宋学は仏教特に禅の影響が強くあるとはすでに定説になっていますが、この文章などもそれが
あてはまるようです。