今時を尽くす

祇園精舎は釈尊在世の当時弟子たちが修行に専念した大道場です。祇園は京都にある町ですが

それは道場とは真逆の繁華街ですね。出家者の道場という意味はまったくありません。
平家物語の有名な文句「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」なども連想されます。

さて、芙蓉道楷禅師の祇園正儀とは無関係ではあります。そのなかに「今時能く今時を尽くさば
更に何事があらん。もし心中の無事を得れば、佛祖猶冤家(おんけ)なるがごとし」

昨日明日を超えて、今という、この今を尽くすなら、けっして困難ではないのである。もし心中の平安を
得るなら、佛祖などは誰しも必要としなくなるのである。一切の世俗の事に、冷淡となって、初めて

本来の己に相応しくなるのである。(『正法眼蔵現代語訳石井恭三』より)

己の一生は一年の積み重ねであり、一年は一か月の積み重ね。その一か月も一日が30日継続
したもの。さてその一日は朝昼夜とくぎれます。その時その時が一生そのものの貴い時間です。

今時と尽くすとは、かけがえのないこの一瞬を仏道に向けて費やすことにほかならいません。

出家ならば当然のことでしょう。これをおして考えれば、お互いの生活においてそのように応用
してもいいのでしょう。一瞬一瞬を悔いなく過ごす。それができれば素凡夫のままの私たち

がそっくりそのまま活き如来となってくるからにほかなりません。ありがたい仏様を拝みながら
後生の平安を願うなどというさもしい凡夫根性は吹き飛んでしまいますね。