西有穆山禅師(1821~1910)は宗門の第七代管長、大本山総持寺第三世貫主であり
勅賜号を直心浄国禅師と申します。幕末から明治にかけて活躍された禅僧です。
その門下からは丘宗潭、岸沢惟安などのいわゆる眼蔵家を輩出しました。
西有禅師の著書「正法眼蔵啓迪」(しょうぼうげんぞうけいてき)は開祖道元の主著である
「正法眼蔵」の提唱録として宗門のみならず現在でも研究者必読の禅書である。
眼蔵家(げんぞうか)とは禅定家(ぜんじょうか)に対する言葉です。坐禅の世界を
縦横無尽に解き明かしたとされる「正法眼蔵」の研究に一生を捧げた禅僧を
眼蔵家と称し、坐禅三昧に没入した禅僧のことを禅定家と言い習わしております。
あの奕堂禅師などは近世第一の禅定家であり、西有禅師も若き修行時代には奕堂に
参禅しております。眼蔵家といい禅定家といってもその力点の置きどころでの呼称
なのですから、宗門の坐禅をないがしろにしたわけではありません。
さて、西有門下の逸材として忘れられないのが村上素道老師です。この老師の宗門に
おける功績はなんといっても高祖道元の荼毘塔を確定したことです。
老師が確定されるまではなんとなく京都のある場所とされていたのでしたが、独力で
その場所を確定されたのでした。「禅話集」は素道老師の著作集として第六巻におさめられてい
ます。さらに「大智禅師偈頌」で有名な祗陀大智禅師(1290~1366)開山処として知られて
いる鳳儀山聖護寺を再興された傑僧でもあります。老師の学僧としての蘊蓄は
編著である「蓮月全集」でも発揮されております。
老師の著作「禅話百則」などを拝読すればその深さが知れます。著作は大正年間のものが
多いのですが、坐禅の友としても現在でも光を放つ御著作といえます。
西有門下にこうした学徳兼備の禅僧が昭和にまで存命していたことは宗門の幸福と
言えると思います。