高木中将がサイパンで自決したのは昭和19年7月11日で場所は島の北端にある地獄沢だった。
53歳。その5日前の7月6日には陸軍最高司令官斎藤中将と南雲海軍中将が玉砕していた。
髙木中将は戦死により、海軍大将に任ぜられた。表題は自決寸前の漢詩にある。
花散湾頭観月台 花ハ散ル 湾頭ノ観月台
忠魂共靖滄浪没 忠魂共に靖ラカニ滄浪ニ没ス
彩帆存否幾百年 彩帆ノ存否幾百年
尽忠報国七生志 尽忠報国七生ノ志
漢詩の七言絶句の体裁をつけてはいるものの平仄無視なので定型漢詩とはいえない。
しかし、まさに死ぬ決断を下したときに七言絶句を称えるというのは軍人の嗜みを知っていた
のだろうと推測する。日露戦争の大立者として有名な児玉源太郎大将のような文藻豊かな
教養までは望むべくもないけれど従容として高級軍人の最後を遂げたのはいかにも武士道
の精華を体現した海軍軍人であったと思う。海軍予備生徒への訓示のとおりに己の
死に直面して泰然自若であった。言行一致の生涯だった高木大将は故郷いわきの偉人
である。